劇場版AIR
アニメ監督:出崎統、音楽:周防義和、キャラデザ:小林明美
 劇場アニメ  空と少女と絆の物語  2005/02/05公開 
原作・監修:ビジュアルアーツ/key

※GM研はこれまで、批評家としてではなく紹介者としてのスタンスを頑なに貫いてきましたが、今回のレビューに限ってはネタバレを避けて、この作品が引き起こした問題の本質を説明することは不可能だと判断しました。いつものネタバレ隠しテキストではなく、すべて通常表示とさせていただいています。レビュアーとしての流儀を曲げてまでして書いた、深い哀しみと激しい憤りとやるせなさに満ちたこのレビューは、もはや批評とは呼べないものなのかも知れません。所詮1ファンの主観に過ぎないと片付けられてしまうかも知れません。しかし、私は信じています。本当にこの原作ゲームの本質を理解していた誰もが同じ気持ちなのだと…
以下の本文は、自己判断と自己責任においてお読みいただきますようお願いいたします。

「劇場版AIR」とは?

 2000年9月にWindows版が発売されて大ヒットを記録してから4年半…「鍵っ子」とも呼ばれる熱狂的なファンからの支持を受けて、今なお根強い人気を誇る恋愛アドベンチャーゲーム「AIR」の劇場版アニメ化&TVアニメ化が実現しました。劇場版の監督には「あしたのジョー」「エースをねらえ!」などを手掛けた巨匠:出崎統を迎え、巧みなグッズ付き前売券戦略や、部分公開されたサンプルムービーの出来の良さや、先行放送されたTVアニメ版の”神の出来”もあいまって、劇場版に対するファン達の期待は嫌が応にも高まる一方でした。そして遂に迎えた公開初日…池袋シネマサンシャインには、公開を待ちわびていたファン達が大挙して集結しました。初日の整理券が午前中で無くなり、5時間半待ちしても立ち見だったり、次回上映の入れ替えができないほどグッズ販売に長蛇の列が出来たり…おそらく、この劇場始まって以来の大混乱だったことでしょう。しかし…上映が終わった瞬間、ファン達の熱い期待は深い失望へと変わり、歓喜の声は怒号になっていたのでした…(※公開初日の大混乱の模様は、ニュース系サイトの記事をご参照下さい。)

 そういう事前情報をシャットアウトして、二日目の早朝上映に立ち見で臨んだ私は、観終わった後、何とも言えない気持ちになりました。すでに怒りを通り越して、悲しいやら情けないやら…ただ一言「とても残念だ」というガッカリ感が、考えること全てを否定してしまいそうになりました。レビュアーとして口をつむぎ、黒歴史にして記憶から葬ってしまいたい。そんな衝動にも駆られました。だが、このまま何もしないのは認めてしまうことと同じです。それは、ファンとしての矜持が許さない!名作の記憶を台無しにした劇場版の罪はもう動かせない現実であり消せはしない。ならば、せめて真実を記録して教訓にするしかない。メディアミックスが作品を理解しないと、どれほど悲惨なものになるのかを…

キャラクターの性格と物語設定とテーマが変わったAIRに
意味はあるんでしょうか?

 とはいえ、この劇場版はゲームとは全く異なるものであることを前提にしているので、観鈴以外のヒロインがわずか数カットしか登場しないのも、裏葉の活躍がほとんどないのも、そらが単なるカラスなのも、往人の人形劇大道芸が大繁盛なのも、観鈴がやたらと積極的な性格なのも、無意味に祭りや荒波の描写が多いことも、出崎アニメ恒例の劇画チックな止め絵の多用や嘔吐の演出も、ベタアニメの演出で短く編集されてしまった「鳥の詩」も…

まぁ、100万歩譲って我慢しましょう。キャラクターの性格と物語設定は変わってしまっても、総合のアレンジとして徹底されていれば楽しめる。同人誌を嗜んできた大多数のファンにとっては、それは脳内補完能力で十分に許容できる範囲のものです。「翼人伝承」を観鈴のフィールドワーク(自由研究のようなもの)の課題と上手く絡めて、回想シーンのように神奈と柳也の悲恋伝説を描いて観鈴の病とオーバーラップさせ、「DREAM編」と「SUMMER編」を同時進行させて行く劇場版の構成手法は、素直に上手いと評価したい。しかし、テーマだけは譲れない。絶対に譲ってはいけない部分だった。この物語の肝心要の完結編である「AIR編」を完全にカットしてしまってたため、その先に待ち受けるものはただの悲劇でしかなくなってしまったのです。

 劇場用パンフレットや特典ブックレットに収録されている出崎監督のインタビューで語られているように、この劇場版を「生き様を描く恋愛ドキュメンタリーアニメ」として観るならば、それなりに良く出来た作品なのかもしれないし、非情なほどバッサリと原作をぶった斬って90分の尺に収めた手腕はプロの業だと思います。しかし…「AIRがAIRであることの意味」を成すべき、最も大切な部分が根こそぎ抜け落ちてしまったことに気づいていない。これが致命傷になってしまいました。

 残された最後の命を振り絞って、観鈴が浜辺で「ゴール」しようとしていた時、私は感動ではなく、哀しい確信と、どうにもならない悔しさで泣きそうになってしまった。時間配分からしてもう絶対に奇跡は起きない。あの名曲「青空」の使いどころさえ誤ったこの作品に対して、怒りよりも哀しみが先に立ってしまったのです。それでも、最後の最後まで信じたかった。このまま終わるはずが無い。終わっていいはずが無い!スタッフロールの中に、あるいはエピローグのようなものがあるかもしれないと…たとえ一言でも、広がりやその後を示唆するメッセージが込められているのだと信じていましたが…すべての望みは裏切られました。

空の少女に届かなかった”願いと想いのカタチ”

 確かに「AIR」はハッピーエンドの物語ではありません。だが、それは単純に悲劇を意味するものもありません。1000年越しの長大な物語と複雑な反復構造のシナリオが描こうとしたのは、とてもささやかな、たったひとつ奇跡でした。願いと祈りを空の少女に届けた結末は…当時、その解釈を巡って論争が起きたほどでしたが、やがて誰もが同じ結論に至りました。この物語は個人主観の単なるギャルゲーではない。時代と時間を越えて繋がる作品とキャラクターのすべてを見守る「想い」と「絆」の物語なのだと…その瞬間、このゲームは遊び手にとって「特別な作品」になったのです。

 結局…映像のクオリティがどんなに良くても、どんな大物監督を起用して演出を担当しようと、AIRというゲームの構造が生み出した「本質」そのものを映像化できなければ、決して空の少女を救いたいという願いが届くことはない。そして、この映画に救いはどこにもなかった。「90分に収まる内容じゃないよね。その割には良くやったんじゃないの」と製作側に理解を示す声もあるようですが、それは言い訳にもならないと私は思います。素人目にも無理だと分かるくらいなら最初からやるべきではなかった。劇場版の製作側にとっての作品理解とは、そんなものでしかなかったのでしょうか?!もし、この劇場版にわずかでも意味があったとするなら…これをきっかけにして原作のゲームをやってみようと考えてくれる人が出てきてくれることと、メディアミックスというものの危険性と限界を再認識させてくれたことくらいでしょうか…

 実は、その疑問に対する回答は、皮肉なことに劇場で販売されているパンフレットに隠されていました。結果として世に出ることのなかった、脚本の中村誠氏の手による「AIR準備稿第三稿」…そこに示されていた「もうひとつの結末」を読んで…脳内補完をフル稼働させて、リアルタイムで映像変換させて迎えたその結末に、私は涙しました。素晴らしい…AIR編ともクロスさせて迎えたその結末は、悲劇でも奇跡でもなく、空に届けた想いをそのまま形にしたものであり…ゲーム版の結末に勝るとも劣らない感動的なものになっていました。この第三稿が実現しなかったことが本当に残念でならない。曲がりなりにも文章を書く身として、内容を理解しない者の横槍で改悪が重ねられていったことが悔しくてたまらない。この幻の第三稿を読むためだけに、劇場に足を運ぶ価値は十分にあると思います。劇場版の怒りと悔しさを、この第三稿にぶつけて涙しましょう!

 白い雲の向こう、白い羽が舞う世界で、あなたはきっと出会うことでしょう。
 本当の結末に…

First written : 2005/02/12
Last update : 2005/08/21