ギャルゲーム批評 2005年1月号
同人誌サークル:O山出版(おーやましゅっぱん)
 批評  ギャルゲー批評  年1回発行 
作者:YAS O山、陸奥ナガト、田原豊、焼けぷ、他

(C)2000-2004 O山出版

「ギャルゲーム批評」とは?

 GM研も同人誌でレビュー本を出していますが、実は、あの本を製作する動機となり「目標」としている同人誌が存在していたのです。それが、サークル:O山出版さんの「ギャルゲーム批評」でした。元ネタとなる雑誌(ゲーム批評)を製作精神レベルで完全にオマージュしつつ、同人誌ならではの先鋭化された辛口で、退かぬ・媚びぬ・顧みぬ厳しさの中にも、それがすべてギャルゲーへの愛から滲み出る血の涙だと理解できたとき、批評は個人の主観を超えた思想の共感にさえ至る… ギャルゲーを愛する者の一人として、動き出さずにはいられない。批評が持つ可能性を感じさせてくれる本誌は、私にとって今尚追いかけるべき目標であり理想なのです。

 メーカーからの広告収入で成り立っているゲーム雑誌が「提灯記事」しか書けない現状では、そこに公正な評価を期待することなど出来ない。では、そもそも、ギャルゲーを公正に批評するとはどういうことなのか?ギャルゲーの評価とは、企業力の販売力や宣伝力による商品性と、製作者の優劣による作品性だけではなく、ファンサービスやイベントやグッズ展開などのゲーム外要素に拠る部分も非常に大きい。そのいずれも尊重するが、何より作品としての立場をより尊重する。批評とは、感想文でも中傷でもなく、建設的な考えと一部の邪推のもとに行うものであり、広い視野を持ち作品の背景を把握することに努める。つまり、その辛口と苦言には必ず理由があり、そして未来への改善提言が必ず対になっているのです。「責任野党」とも言うべき批評が本来果たすべき役割を担う同人誌、それが「ギャルゲーム批評」なのです!

ギャルゲーは倒れたままなのか?

 さて、そもそも「ギャルゲーの定義」とは何なのか?かつてPC市場のごく一部で「美少女エロゲー」という一定の需要があったものの、ゲームの主目的はエロであって、そこにシステムの優劣やキャラそのものの商品性が問われることなどあり得なかった。明確に恋愛がゲームシステムとして娯楽になりえることを実証したのは、「ときメモ」が始まりでした。100万本を売り社会現象を巻き起こし、ギャルゲーにゲームとしての市民権を与えた王者の功績は偉大だったが、王者の凋落とともにギャルゲーの迷走が始まったのもまた事実です。10周年を迎えたときメモ特集「ときメモブランドの落日」に克明に刻まれた歴史の光と陰は、ファンであればこそ決して目を背けてはならない。黒歴史にして葬り去ってしまうのは簡単だが、それでは失敗を糧にした反省は生まれない。完全に崩壊したブランド再建へのロードマップは、そこから始まるのである。

 ギャルゲーの”今そこにある危機”を訴え続けてきた本誌でしたが、特集「ギャルゲー総AVG化時代を打ち破れ!」には、如何ともしがたい歴史の奔流が凝縮されています。「ときメモ」から始まった束の間のギャルゲーバブルが生み出した、荒削りながらも「ゲームであること」が追求された大開拓時代は、1998年の「センチショック」による市場崩壊で突然終焉を迎えてしまった。数多くの野心作が21世紀を迎えることも叶わず消えて行きました。そんな家庭用ギャルゲー市場の崩壊を他所に、PCゲーム界に出現した救世主「To Heart」と「Kanon」は、ギャルゲー界に総AVG化をもたらしたのです。ゲームをキャラクター演出に特化させるこの手法は、瞬く間に業界を席巻し「萌えゲー」という潮流を生み出したものの、それは、ゲームの本質を否定する劇薬でもあったのです。萌えの細分化によって遊び手の嗜好も分散して普遍性を持った作品が失われ、システムの画一化は類似と萌え資源の枯渇を生んでしまった…この時流に唯一対抗し得る存在であった王者ときメモは、「2」「3」の失敗によって権威失墜…ギャルゲーは倒れたままなのか?いや、敢えて言おう。ギャルゲーはすでに滅びたと!しかし、この焼け野原にも次世代への芽は僅かだが残されている。明けない夜はない。そう信じたい。

蘇れ、ギャルゲー!

 そんな今だからこそ、改めて問われているのは、「ギャルゲーがゲームである意味」ではないでしょうか?かつて、ギャルゲーが「知的遊戯であること」に豊穣なる可能性を魅せつけてくれた元祖「ときメモ」の価値を改めて問うことにより、現在ギャルゲーと形容されている何かが完全に見失ってしまった「理想」を見つめ直してみて欲しい。そこに懐古や記憶の美化が全く無いと言えば嘘になるかもしれないが、恋愛そのものを扱った「ゲーム」がこの10年間で、元祖を超える作品が出現しなかったのも、また事実なのです。ゲームであることを否定してしまう、ビジュアルノベルという鬼子さえも生み出し、遂には「ひぐらしのなく頃に」のように、完全にゲームであることを否定した作品が高い評価を得てしまうという現状を鑑みれば、遊び手がいつだって新しい遊びに飢えているのは自明の理である。たとえ1本でもいい…業界に風穴を開けるような作品が出現すれば、状況は劇的に変化するだろう。逆に言えば、そんなパワーのある作品が出現しない限り、ギャルゲーがゲームと呼べなく日もそう遠い未来のことではないのですが…

 だからこそ、今声を大にして叫ばなくてはならないのです。「蘇れ、ギャルゲー!」と。2000年の創刊から闘い続けてきた5年という歳月の積み重ねによって、本誌はゲーム批評のひとつの究極形に到達したように感じます。その魂の叫びは読者に届く。読者は自らの想いに気づき動かずにはいられなくなる。今まで何の疑いも無く享受してきた娯楽の見え方が変わってしまう。そうして常に高い目標を持って娯楽に接する遊び手が一人でも増えることによって、遊び手が作り手を甘やかさない環境が生まれ、理想を持った作品の芽を見逃さず守り育て行ける…そんな未来を思い描くのなら、今やるべきことは、歴史に学び、現実を認めることである。本書は、それだけの気概がある諸兄に、迷わず手に取っていただきたい逸品です!

※画像使用許諾:2005/02/04
First written : 2005/02/05

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