FINAL FANTASY VII  ADVENT CHILDREN
DVD
UMD
制作:スクウェア・エニックス
 SF・アクション  FFVII完結編CGムービー  100分 
ディレクター:野村哲也、シナリオ:野島一成

「FINAL FANTASY VII ADVENT CHILDREN」とは?

 ゲーム「ファイナルファンタジーVII」での戦いから2年…セフィロスがもたらした大破壊から復興しつつあった、かつて新羅カンパニーの本拠地だった魔晄都市ミッドガルと世界を、再び謎の厄災が襲っていた。「星痕症候群」…セフィロス因子を排除しようとする体内のライフストリームの過剰防衛反応によって引き起こされるこの病に治療法は無い…死に至る不治の病に人々は次々と倒れ、世界の希望は再び失われつつあった。

 先の戦いで星を救ったクラウドは、仲間たちと距離を置いて過ごしていた。エアリスを失った自責の念が消えることは無く、そしてクラウド自身も星痕の痛みに苦しめられていた。新羅カンパニー復活を目論むルーファウスと、ジェノバ再生とリユニオンを欲する銀髪の3人組との避けようのない戦いに、心を閉ざしていたクラウドは、思い悩みながら剣を取る。「罪って許されるのか?」。葛藤の末戦いを決意したクラウドは、星を巡る戦いに決着を、そして自らの想い出に決着をつけることができるのか?それが、「FINAL FANTASY VII ADVENT CHILDREN」なのです。

すべての”想い”に決着をつける完結編

 ゲーム本編の発売の1997年から8年もの時が経っているわけで、シナリオの細部はもうすっかり忘れていましたが、同時収録されていたゲームのダイジェスト版ムービーを観て、当時の記憶が鮮明に蘇りました。映像面だけでなくシステム面でも大ハマリしたし、何周もクリアして自前でビデオ録画編集していたくらいなので、こうして映像作品になるのも必然の流れなのかな、という気がします。事実として、FF7はFFシリーズで最多の全世界販売数を記録していたわけですし。

 深く壮大で複雑に絡み合うFF7の物語は、ゲーム本編では多くの謎を積み残したまま・敢えて語られないまま終わりました。完結編を望む声も多くありましたが、個人的には、そこに消化不良の感があったわけではなく、想像の余地を残す意図と、想像の余地を働かせたくなるバランスが絶妙でした。だからこそ、公式が今更後日談ですべてを語り尽くすことはより一層難しいのです。誰だって想い出はキレイな方がいいですからね。

 そういう見方で本作に臨んだ私でしたが、映像云々よりも人間関係の葛藤が丁寧に描かれていることに好感を持ちました。特に、心を閉ざし葛藤するクラウドの内面世界でのエアリスの、現実とも非現実ともつかない確かな存在の演出が随所に効果的に配置してあり、ラストシーンでのすべてを乗り越えた”想い”を何倍にも増幅してくれました。涙は出なかったけど、光の中に消え往くその背中を静かに見送れたこと…それがこの作品のすべてなのかも知れません。

もっとも贅沢な蛇足?ファンサービス?それとも…

 ポリゴンの目立つCGムービーから8年間の技術の進化は目覚しいものがあり、1つ1つのカットはハリウッド映画を遥かに凌ぐ尋常ではないクオリティがあります。しかし、100分間の映画として観ようとすると、映画的演出とゲーム的演出が中途半端に混ざったようなシーンの繋ぎ方と、断片的な情報出し方と忙しすぎる緩急に違和感を感じてしまいました。この作品が単体の映像作品として高い評価を受けることは無いかもしれませんが、そういう部分での評価に主眼を置いていない本作にとっては、それは些細な問題なのでしょう。

 これはあくまでもゲーム本編を知っている人が楽しめる事を前提して制作された作品だと割り切れば、こんなに贅沢なファンサービスは他にない!とも言えると思います。かつて本格過ぎたSFCG映画で多大な損益を出した挑戦の芽が無駄にならなかったことは、とても意義のあることだったと思います。現実のリアリティの追求ではなく、非現実だからこそ可能となるゲーム文法的な映像意識の追求。この作品はゲームの一つの進化の方向が辿り着いた一つの結論だと思います。もっとも、それは映像意識とゲームは究極的には相容れない表現手段だという証明でもあるわけですが…

 受け手の”想い”に大きく左右される作品なので、内容面での評価も解釈も千差万別だと思いますが、何にしても、もう一度自分の”想い”に向き合う機会を与えてくれるという意味で、FF7を経験したすべての人にオススメしたい逸品です。

First written : 2005/09/29