monthly GM-ken Head Lecture
GM研所長講演

ゲームの話をしようよ

 今月号のGM研所長講演は「特別講演シリーズ第一弾」として「ゲーム1万字評論」を行います。タイトルは「ゲーム話をしようよ」。このタイトルは、私が敬愛する週刊ファミ通NO.1論客:永田泰大(風のように永田)氏の「ゲームの話をしよう」を真似たものです。常日頃私が今が考えているゲーム観というものを再確認し、これから何をなすべきなのかを、もう一度冷静になって考えたい… そのような思いが、この講演には込められています。1万字ではそのすべてを語り尽くせないかも知れませんが、どうか、最後まで御静聴下さいますよう、お願い申し上げます。


ハード篇

勇気ある撤退宣言

 セガのハード撤退宣言から数ヶ月… 業界を激震させたこのニュースは、多くの驚きと歓迎を持って迎えられた。セガ株は連日のストップ高を記録し、ライバル会社もセガのソフト供給を大いに歓迎した。それはセガのソフト開発力と技術力がいかに高く評価されているかの証明であった。

 セガファンにとっては、さぞ残念なニュースであったことであろう。だが、20年に渡ってハード屋として業界を牽引してき功績はゲームの歴史から消えることは無い。ゲームセンターに体感ゲームと3D格闘ゲームを定着させ、ネットワーク対応ゲームにもいち早く取り組んできた。しかし、セガには「セガはいつも3年先を行って失敗する」という格言がある。もし、通信環境の整備が3年早かったなら、セガの大逆転のシナリオはあったのだろうか?…などどと考えても後の祭りであるが。

 セガにとってハードビジネスというものは成功した前例が無い。言わば、ハードはセガにとって呪縛の鎖でしかないのだ。赤字であるにも関わらずハードを作り続けてきた理由、それは「技術屋のプライド」である。しかし、家庭用と業務用の立場が逆転してしまった現代では、最先端技術のフィードバックなど過去の幻影となってしまった。セガの経営を支えてきたゲームセンター事業の没落。未開の荒野で収支もおぼつかないネット市場。もはやセガに道は残されていなかった。

 「座して死を待つか、それとも撤退を決断するか」

 セガという独特の気風のもとに集まった一流の技術者にとって、その決断は屈辱的なものであったことだろう。だが、このまま滅びてしまったら、今まで先人と自分たちが続けてきた戦いが無駄になってしまう。撤退を決めたからには、全力で新たなる野望に向かって突き進まなくてはならない。世界一のソフトメーカーを目指して…

 戒めを脱ぎ捨てたセガ。名を捨てて実を取る。勇気ある撤退に改めて敬意を表します。

頑固者の底力

 32ビット機戦争に敗れた任天堂が復活することを、当時どれだけの人間が信じていただろうか?予想だにしないポケットモンスターの世界的大ヒットによってゲームボーイを復活させ、ニンテンドウ64を「ハードは売れないけど確実にソフトが売れる」安定市場を完成させた… 現在の任天堂の経常利益は、スーパーファミコン全盛期よりも大きいのです!

 2000年のゲーム販売BEST10のうち、7つまでもが任天堂絡み。ゲームボーイと64を合わせた市場は業界の40%台を常に維持しています。PS2に対抗しうる唯一の勢力として任天堂が生き残り、敗れたセガが撤退するのは当たり前の論理なのです。

 任天堂の底力… それは徹底した「こだわり」にあるのです。どんなに時間が掛かっても、納得のいくものを作り上げる。本当に面白いと思ったものは、どんなに前人気が無くても発売するし、全力を挙げてその面白さを啓蒙しようとする。最も豊かな感性を持つ子供たちを相手に、常に真剣勝負を挑む姿勢… ともすると「地味」に思われがちな任天堂だが、その開発スタイルは「頑固一徹な攻め」にあるのです。時代の流れに迎合しない、ゲームの本質を追求する職人集団、それが任天堂なのです。

 ポケモン世代が経済力をつけ始めたとき、任天堂が再びトップに立つ日がくるであろう。任天堂の次世代機:ゲームキューブは任天堂精神を受け継ぐために、大切に育てなくてはならないのだ。

王者の怠慢

 初年度出荷400万台。順調なスタートを切ったPS2。DVD市場に革命をもたらした功績は計り知れないが、本業のゲームではなんとも頼りないものだった。FF9、DQ7という大作ソフトがPSにまだ残っていたし、1年目でPS2の性能を活かしたゲームを作るのも無理があった。2年目の2001年はPS2ゲームの真価が問われる年になるであろう。

 ここで敢えて私は苦言を呈したい。それはSCEのネットワーク対応への不手際である。ゲーム会社各社が競ってPS2専用ネットワーク対応ゲームを開発しているというのに、SCEは肝心のPS2用の通信機器をリリースしないのだ。他社からはすでにPS2用のUSB接続のアナログモデムが発売されているが、SCEはいつまで「他人任せ」を決め込むつもりなのだろう?SCEがPS2を発表した時のブロードバンド構想「e-distribution」は一体どうなったのか?通信手段は各自で勝手に用意しろというのか? 

 ネット環境が整備されると期待していたからこそゲーム会社はネットワークゲームを作る気になった。ユーザーも安価かつ普遍的な通信環境における新しいゲームの形に期待したからこそPS2を買う気になった。これは許されざる背信行為でなのある! 売れているから、ライバルを蹴落としたから満足。それではとんだ裸の王様である! 王者には一部の隙もあってはならないのだ。安定的支配への安住は、怠慢でしかない。それが王者の義務というものだ。

巨人の大誤解

 2001年末、いよいよマイクロソフトが「Xbox」を引っさげて家庭用ゲーム市場に参入する。独占的市場を持つがゆえに司法当局から迫害を受け、分割の危機に直面しているマイクロソフト起死回生の秘策… それが「Xbox」なのです。東京ゲームショーにビル・ゲイツ自ら乗り込んでくるという気合の入り方は尋常ではない。だが、本当にXboxは成功できるのであろうか?

 Xbox最大の強みはWindowsゲームとの連動性である。移植も簡単だし、通信環境も また、マイクロソフトの経営体力に物を言わせた、圧倒的物量作戦とダンピングで攻勢に出てくることでしょう。マーケティングは万全。しかし、Xboxが日本で成功できるかどうかは話は別です。ゲーム先進国:日本のゲーム市場は複雑怪奇であり、「良いものが売れる」とは限らない。「あの有名メーカーが参入する」「あの続編が作られる」という確約が無い限り日本人の現役ゲーマーはハードを買ってくれない。その反面、あまり普段はゲームをしない非常勤ゲーマーも大量に存在している。初回出荷のメインターゲットを彼らのような浮動票の獲得に絞れば、順調なスタートを切ることも出来るかもしれない。

 だが、マイクロソフト最大の誤算は日本人のネットワークに関する意識の薄さであろう。インフラが十分に整っていない上に、ネットワークに対する啓蒙も不十分である。声高にネットゲームを叫んだところで空振りするだけだ。そういう現状を踏まえて丁寧な啓蒙活動を行えるかどうか…Xboxの成否はそこに掛かっている。


業界篇

ゲームと株式のイケナイ関係

 「なぜゲームの発売日というものは、こんなにも頻繁に延期されるのか?」こういう疑問を抱いたことの無い人はいないと思います。心待ちにしていたゲームが発売直前になって延期されたりすると、落胆を通り越して失望すら感じることもしばしばあります。

 しかし、そもそもゲーム製作に厳密な予定を立てるという事自体が無理があるのです。時間さえ許せばいくらでも直したい箇所はあるだろう。スケジュールに追い立てられることなく十分な構想期間が欲しいだろう。だが、ゲームは会社の商品である以上、予算とスケジュールの許す範囲で開発を行い、開発に投じた資金を回収し、利益を生まなければならないのだ。それが資本主義社会での鉄則なのです。

 ゲーム業界の膨張とともに、ゲーム製作会社の組織機構も巨大かつ複雑になりました。高騰するゲーム開発費を確保するために、株式発行や銀行融資などのリスキーな外的先行投資を余儀なくされているのです。特に株式市場は経営の健全性に非常に敏感であり、ゲーム会社にとっては大変相性の悪い市場です。事業計画を台無しにしてしまう「発売延期」がつきもののゲーム業界の株式は、当然乱高下が激しくなります。今や発売延期は経営危機に直結する大問題なのです!

 この問題はFFのような大作になるほど深刻になります。2000年度のスクウェアはFFXの発売延期により、創業以来初めての赤字決算を計上し、社長:武市氏と副社長:坂口博信氏の引責辞任にまで発展しました。製作と経営が一体化したままの脆弱な組織しか持たないゲーム会社が多いため、今後も思いもかけない有名企業が経営危機に陥る可能性があります。

 商品と作品との間の矛盾は、決して解かれる事の無い永遠の命題ですが、これを経営側の論理だけで解決しようとする機運が業界の常識になりつつあるのが現状です。それによってクリエータ側の発想と発明意欲が不当に抑制されることがないよう、祈りたいものです。

権利戦争の顛末

 一時期大きく取り上げられたゲーム関連の訴訟合戦は、その後どうなったのでしょうか? 中古ソフト問題、コナミとナムコの泥沼の訴訟合戦、コナミのプロ野球機構との独占契約問題… 日本人にはまだその認識が薄いのですが、知的所有権は超高度情報社会において、極めて貴重な財産なのです。これらの問題はその氷山の一角に過ぎません。

 特許や権利の独占は企業にとって死活問題になりかねないものですが、それは裏を返せば最強の武器にもなり得るのです。しかしそれは諸刃の剣。独占は他社との競争を阻害し、ユーザーに価格競争の恩恵が届かなくなる。開発者の権利は最大限に保障されるべきであるが、「何をもって特許とするのか」という基準が不明瞭であり、これは悪用されかねない由々しき問題なのです。

 技術や発想の根幹に関わる特許を誰かが独占した場合、業界全体に巨大な不利益を生むことになってしまう。他社に先んじられる前に権利関係を抑える。それは競争の常套手段ですが、そういう場外乱闘にかまけて本業のゲーム作りが疎かになってしまう危惧もあります。権利関係はあくまで自衛手段以外の何物でもないことを再認識していただきたいものです。

携帯電話という危機

 503iで華麗なるデビューを果たしたJava搭載携帯電話「@アプリ」。多くの有力ゲーム会社がこぞって携帯電話専用ゲームを提供していますが、私はこれに大いなる危惧を抱いています。飽和状態のゲーム人口を拡大するために携帯電話業界へ進出するのは当然の策なのですが、それはあくまでゲーム側の人間から見た狸の皮算用でしかありません。

 「携帯電話ゲーム」→「家庭用ゲーム」という公式は成立しません。これは中高年にパソコンを教えるよりも困難なことなのです。家庭用ゲームという洗礼を受けていない者は、携帯電話ゲームのレベルを「標準」であると考えてしまうのです。そうなってしまうと家庭用ゲームは、ただ「難しくて面倒くさいもの」としか認識できなくなってしまう。ゲーム市場が広がったというのは錯覚であり、実際には空洞化が進行してしまうのです。

 しかし、携帯電話ゲームも悪いことばかりではない。携帯電話ゲームの存在に刺激と危機感と新しいアイディアを得ることにより、家庭用ゲームの進化に寄与することができるかも知れない。

競争から支配の時代へ

 セガの撤退は業界と市場全体の構造の変化に起因するものです。時代は「競争」から「支配」の時代へとシフトしつつあります。ゲーム業界そのものは膨張したが、それは構造の空洞化でしかない。ゲームの密度は薄くなってしまった。ユーザーは多すぎる選択肢を前に悩むことすら放棄して趣味に走り、メーカーは冒険を避けて狭いターゲットへ安定的な作品だけを作るようになってしまった。

 相次ぐ中堅ゲーム会社の倒産は、「ナンバー1になれなければ生き残れない」「ALL or NOTHING」という厳しい市場競争世界の当然の理なのです。正常な競争は価格競争と技術競争を生み、結果的に消費者の利益に繋がるものですが、過度の競争は一人の支配者以外の存在を許さない閉鎖的な状況を作り上げてしまう劇薬でもであるのです。

 おそらく、「統一ハード」という永遠の夢が実現される日も、そう遠くは無いでしょう。天下三分の計が崩れた今、2強が激しい流血を強いられることは確実です。その不毛な戦争を終結させる手段は「統一ハード」しかないのです。ハードという大鑑巨砲主義は終焉を迎え、純粋にアーティスト性を追求したソフト作りが求められる… これはクリエータの実威力本意の、ある意味で厳しい社会ですが、ゲームが文化として定着していく上で避けては通れない道なのです。


未来篇

2003年ゲーム危機説

 ゲームの危機が迫っている… という説に賛同してくれる人は少ないと思いますが、完全に否定できる人も多くはないと思います。深刻な状況を引きずったまま疾走を続けてきたゲーム業界は、間もなく重大な危機に直面することでしょう。かつての「アタリ・ショック」以上の衝撃… それは「リアリズムの敗北」です。

 今までゲームは技術の進化によって可能性を広げてきました。もっとも判りやすい進化、それは視覚的表現の向上です。より美しく、よりリアルに。飛躍的に向上した3Dポリゴン技術によって、今ではあらゆる現象を作り出すことができるようになりました。しかし、技術面で今まで手本にしてきた「映画」を追い抜いてしまったゲームは、今後何を目標にゲームを作っていけばいいのか? やたらとネットワークゲームがもてはやされるのは、ゲームが今示すことのできる唯一の未来形であるからなのです。

 ネットワークゲームが「ゲームの進化」と同義ではないことを人々が認識する2003年頃、大きな危機が訪れるでしょう。頭打ちになった映像表現、手軽さばかりが先行して逆行を始める携帯市場、過当競争によって次々と倒れていく有力企業… これらの危機はいつの時代にも表裏一体で存在する宿命のようなものですが、この危機が不可避のものになる可能性があるのです。そこから新しい何かが生まれてくるのか? それとも何も生み出すことなく終わってしまうのか? こればかりは蓋を開けてみないと判りませんが…

創作の誤解と枯渇

 ゲームというのは創作物として多くの矛盾を内包しています。ゲーム作りには巨額の開発資金と大量の人員が必要であり、創作者の「色」が出にくい創作物なのです。ドラクエのように長い年月をかけてたものや、FFのように強烈な指揮で製作されるものは例外的な存在なのです。企画当初の構想とかけ離れてしまうことも多々あるし、開発側と経営側の不理解やスケジュール対立もあるだろうし、企画に手を加えすぎてユーザーが求めているものと食い違ってしまうこともある。商品と作品のせめぎ合い。それがゲームソフトという創作物なのです。

 かの宮本茂さんも言っていましたが、「プログラマーとデザイナーはいくらでも進化できるが、プランナーはそうはいかない」のです。企画を出すだけなら誰でもできるだろうけど、その企画に技術者が賛同してくれなければ、それは絵に描いた餅でしかない。技術者を説得する人徳や実績にもとづく信頼関係がそこには要求されるのです。それは一種のカリスマと言ってもいいでしょう。だからこそ、新しい天才がなかなか出現しない職種なのです。

 ゲームが会社という組織で作られている以上、会社が抱えることのできる人材には限りがあります。優秀過ぎる人材は独立してしまうし、無能な人間でも会社の体裁があるので簡単には辞めさせられない。結果、会社には中庸人間だけが残り、発明的な仕事が出来なくなってしまう。この悪循環が深刻な人材の枯渇を生んでしまうのだ。ゲーム会社は引く手あまたの超買い手市場であるが、頼みもしないのにやってくる人間だけを相手にしていては、本当に必要な人材を得ることなどできない。会社側から積極的に在野に士を求める姿勢が必要なのである。


あとがき

1年後の私へ

 大変長らくの御静聴、ありがとうございました。それにしても、1年後の私はこの論文を見てどんな感想を抱くのでしょうか? 私は預言者ではなく、あくまで分析家です。私が予想する未来は希望的観測と悲観的観測とが、どちらも等量に含まれています。それは分析家としてあるまじき行為であると思います。ですが、私は自分が愛する文化に対して客観に徹することができるほど、人間ができていません。100の論理を積み上げるのではなく、1つの感情論を押し通す… これは案外難しいものでした。

 「好きなものを好き」というのは簡単なことですが、「好きだから言えないこと」「好きだからこそ言わなければならないこと」もある。本当に嫌いだったら話題にすらしないだろう。苦言は逆説の好意なのだから…

2001.3.1 GM研所長 : gonta

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